人種差別と正義感

アメリカでは人種差別は法律で禁止されている。じゃあ、差別がないのかといったらそんなことはない。日本で普通に暮らしているとぜんぜん感じないこの問題はアメリカにいると身近に感じる問題に変わった。(日本に差別がないといっているわけではありません。僕が日本にいたときは身近に感じることができなかったという意味です)

今日たまたま「私が受けた人種差別」という人様の日記を読んだ。

彼女の経験が人事(ひとごと)ではなかったからだ。
幸いなのか不幸なのか彼女のような「ドカっとくる」経験は僕はない。フロリダでカンファレンスに参加したときの白人の目、英語が不慣れとわかるととたんの態度を変える説明員、彼女の体験と比べれば些細なことだ。

昔、ボランティアで野外キャンプのリーダーをしていた。そのとき参加者の一人の女の子が「私本当は韓国の名前なんだけど、普段は日本語の名前を使っているの」と言っていたのを思い出した。そのときは「ふ〓ん」というくらいで僕は正直なんとも思っていなかった。

「差別はされて、はじめて痛みがわかる」のかもしれない。
また差別される側にも差別する側にも簡単に、そして無意識に立つことができることが恐ろしいと感じた。

上記の日記にあるカレッジの先生のような正義感を少しでも持ち合わせたい。